食材から辿る / 旧大陸
ほうれん草 素材 時期 C検証済
ほうれん草が、いつ・どこで食べ物として成立し、各地へどう伝わったかをまとめています。 原産地での成立を3ゲート(食材入手・調理技術・場)で示し、その後の各地への到来を記録でたどります。
3ゲート
- 食材入手ゲート
- 栽培化(ホウレンソウ Spinacia oleracea/古代ペルシア=現イラン。野生種 Spinacia tetrandra 等から。約2000年前とされるが年代は不確実。Laufer 1919 はペルシアでの栽培を6世紀ごろより古くないとみており、栽培化年代には学説の開きがある)
- 調理技術ゲート
- 加熱調理・生食(葉菜)=食材入手と同年
- 場ゲート
- 家庭=食材入手と同年
ほうれん草はどこから広がったか
ほうれん草(Spinacia oleracea)はペルシア——いまのイラン——で畑の菜になった。スピナキア属の野生種、なかでも Spinacia tetrandra などから選び出された作物である。
栽培がいつ始まったかについては、研究者のあいだで見方が分かれている。栽培ホウレンソウの起源と広がりをたどったリベラ(Ribera)らの論文(2021年)は、栽培化をおよそ二千年前とする広く知られた見方を、「そう信じられている」という留保をつけて紹介する。これに対してベルトルト・ラウファー(Berthold Laufer)は、1919年の著作『シノ・イラニカ』で、古代の西方の文献にこの菜がまったく現れないことを根拠に、ペルシアでの栽培は6世紀ごろより古くはなく、中世になってはじめて姿を現す作物だとみた。二つの見方のあいだには数百年の開きがある。
ほうれん草は寒さに強く、涼しい季節に短い期間で育つ。葉は柔らかく、生でも火を通しても食べられ、加熱すればかさが大きく減る。この葉菜は、ペルシアの農地から出発した。
東へ
まず運ばれたのは東だった。南アジアへ届いた年を一点に定める記録はないが、唐の記録『唐会要』が伝える貞観21年(647年)、ネパールから唐へ「菠薐」が献上されたという記事が、年代のわかる最古の記録である。ラウファーはこの献上を、当時のネパールでもこの菜が目新しかったしるしと読み、イラン系の地域からネパールへ入った菜が647年に中国へ渡ったと考えた。南アジアに届いたのは647年までのどこかで、どこまでさかのぼれるかは、栽培の始まりをどちらの見方でとるかによって変わる。ラウファーの見方に立てば、早くても500年ごろからということになる。
インドの言葉(ヒンドゥスターニー語)でほうれん草を指すパーラク(palak)という語は、ペルシア語に由来すると説明されることがあった。ラウファーによれば、パーラクやサンスクリットの palanka・palakya は、もとはビートなど別の植物を指したインド在来の言葉で、それが新しく来たこの菜に転用されたのだという。漢語の「菠薐」についても、ラウファーはインドの土地の言葉での何らかの呼び名を音写したものとみている。
西へ
地中海へ入るのはさらに遅い。ラウファーは、西方での記録として10世紀の『ナバテア農書』を挙げ、次いで11世紀にアラブ人がスペインへもたらしたと述べる。リベラらも、ギリシャ・ローマの文献にほうれん草への言及は一つもなく、ヨーロッパへはイベリア半島を経て11世紀以降に広がったとしている。
ギリシャへいつ届いたかを示す確かな記録はなく、届いた時期は900年から1500年のあいだという幅でしか語れない。11世紀のビザンツの食物書、シメオン・セトの『食物の性質について』には、この菜を指す語が一度も出てこない。ギリシャ語でほうれん草(スパナキ)の名が確かに読めるのは、14世紀から15世紀の中世ギリシャ語の俗語文学『果物譚』や『ロバの物語』で、遅くともこのころには、ギリシャ語を話す人々のあいだで食べる葉物として知られていた。ペルシアの畑を出た菜は、東ではネパールを経て唐へ献上され、西ではイベリア半島からヨーロッパへ入り、やがてギリシャ語の物語にもその名を残した。
各地への伝来 3
各地で食べ物として定着した時期の記録です。地域によっては、それに先立つ物理的な到来(観賞用など、食用より前の前史)が含まれることがあります。
- 前200〜500頃 イラン 在来在地栽培
- 500〜647頃 南アジア 交易路
- 900〜1500頃 ギリシャ 交易路
ほうれん草の到来が成立を縛った料理 1
ほうれん草が届く前には成り立たなかった料理です。到来年が、その料理の物理的な下限になります。
- パラクパニール 北インド1500年ごろ