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羊羹 時期 C起源説 B検証済

確度は2軸: 時期=成立時期の固さ/起源説=発祥譚(説)の固さ(A〜Dの4段階・別々に持つ)。確度とは?→

暴かれた通説あり出典で反証された通説を抱える料理です(真の起源は未確定のことが多い)。

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日本 ・ 現行形=寒天を用いる煉羊羹。寒天の成立(伝承1657)以後、江戸の随筆が初製を寛政年間とする18世紀末に成立。作り手は『嬉遊笑覧』(1830)が紅粉屋志津磨、『蜘蛛の糸巻』(1846)が日本橋の喜太郎とし、史料で割れる(1657-1801) ・ 成立年代 1657–1801 ・ 主役食材 寒天

記章(DB由来の作図・装飾/監修・認証ではない)|起源説確度B・検証済B記章(DB由来の作図・装飾)

和歌山の老舗が天正17年(1589年)に羊羹を豊臣秀吉へ献上し、明暦4年(1658年)に今の練羊羹を完成させた——広く語られてきたこの年紀は、練羊羹に欠かせない寒天の登場とも、江戸の記録とも食い違う。寒天で練り固めた羊羹が記録に姿を現すのは、それより百年以上あとの18世紀後半である。

羊羹の実写写真
実写(装飾) 出典: Wikimedia Commons(Youkan 001.jpg)(CC0・Ocdp)

史料が示すこと 起源・発祥は?

俗説「和歌山の老舗駿河屋の店伝で、天正17年(1589)に5代岡本善右衛門が羊羹を豊臣秀吉に献上し、明暦4年(1658)に6代目が寒天を用いて現行の煉…」は、史料の検証で退けられている。

中国語の「羊羹」は字の通り羊肉の羹(あつもの)で、『戦国策』中山策の故事(羊羹不遍)や『宋書』毛修之伝(修之嘗爲羊羹)に用例がある。この名が禅宗の点心とともに日本へ入り、肉を使わない精進の「見立て」「もどき」料理として汁をかけて食べられ、戦国期から江戸初期にかけて菓子へ変わったとする説(並松2021。精進の見立てと汁をかける食べ方は中山圭子2018に拠る記述)。史料の交差: 『庭訓往来』(南北朝期成立)十月状は羊羹を、猪羹・驢腸羹・鼈羹など獣の名を冠した羹と並べて「點心」の列に置き、柑子・橘など果物を並べる「菓子」の列とは分けている。最古の年紀をもつ至徳3年(1386)写本でも「羊羹」「笋羊羹」は見えるが、その次の品は「砂糖羹」で、「砂糖羊羹」の形は文明4年(1472)写本や江戸期の写本・版本に見える(写本間の異同は萩原義雄の翻字による。至徳本の原本・影印は未見)。茶会記では『松屋会記』天文11年(1542)卯月の条に「菓子 ヤウカン」が見える(茶道古典全集本の全文検索による。並松は卯月三日条とするが、同書の本文の並びでは卯月五日の堺満田での会の条にあたるとみられ、画像では未確認)。『日葡辞書』(1603)は羊羹を「豆に粗糖をまぜ、こねたもので作った食物」、砂糖羊羹を「豆と砂糖とで作る。甘い板菓子(羊羹)の一種」とする(並松が引く邦訳による。1862〜68年のパジェスの仏訳でも、羊羹は豆の練り物と糖蜜で作った食べ物、砂糖羊羹は豆と砂糖で作る菓子の切り身で一致する)。江戸期の『嬉遊笑覧』(1830)も「もとハ魚獸の肉を用ひしを僧家にハ是を除きて製方をかへ…後にハ名のみ同くて物のいたく替れるも有とみゆ、今の羊羹抔是なり」と同趣旨を記す。留保: 14世紀の羊羹が何で作られ、どう食べられていたかを記す同時代の史料は確認できていない。14世紀の史料で言えるのは品名と、点心の一品という位置づけまでで、羊肉の羹が植物性の材料に置き換わった過程や、汁をかけて食べたという姿は、近世の随筆と現代の研究による組み立てである。 なお「駿河屋(伏見の鶴屋)煉羊羹創製伝承(1589年秀吉献上説・1658年製法確立説)」という通説は一次史料・学術文献で退けられている。

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3ゲート

食材入手ゲート
小豆・葛粉は在来。現行の煉羊羹は寒天(ところてんの凍結乾燥・伝承1657/文献は18世紀)の成立と普及に律速される。砂糖を名に含む品は『庭訓往来』の古写本に、至徳3年(1386)写本では「砂糖羹」、文明4年(1472)写本などでは「砂糖羊羹」として見え、『日葡辞書』(1603)は砂糖羊羹を豆と砂糖で作る菓子とする
調理技術ゲート
汁をかけて食べる精進の見立て料理(14〜16世紀・材料と作り方を記す同時代史料は無い)から、小豆餡を蒸し固める蒸羊羹(『日葡辞書』1603年の「板菓子」がその形とみられ、製法を記すのは『和漢三才図会』1712年から)を経て、寒天で煮詰め練り固める煉羊羹への転換。煉羊羹の初製は江戸の随筆がいずれも寛政年間(1789-1801)とするが、作り手は『嬉遊笑覧』(1830)が紅粉屋志津磨、『蜘蛛の糸巻』(1846)が日本橋の喜太郎と割れる
場ゲート
禅寺の点心→茶席・菓子屋

成立年代と食材入手ゲート

食材入手(1657年・在地/到来)が律速=物理的な下限。成立年代の帯はそれ以降にある(場ゲートは年に乗らない構造ゲート)。

成立年代と成立ゲート成立 1657–1801食材入手・律速 1657(在地/到来/寒天)16431815
  • 食材入手(流通/在地/加工の経路を内包)
  • 太線=律速(最も遅い=成立を縛る)
  • 細線=既に充足
  • 場ゲートは年に乗らない構造ゲート(図外)

検証メモ: 2026年10月の検証: 語源は中国の羊肉の羹。日本には禅宗の点心として入り、肉を使わない精進の見立て料理として汁をかけて食べられ、戦国期から江戸初期にかけて菓子へ変わったとする並松2021の見方を採る(日本に入ったときから菓子だったとは言えない)。対抗する羊肝餅説は並松2021が「付会」と批判しており退けた。日本での最も古い記録は『庭訓往来』で、最古の年紀をもつ至徳3年(1386)写本に「羊羹」「笋羊羹」が点心の品として見える。「砂糖羊羹」は写本によって形が違い(至徳3年写本では「砂糖羹」)、14世紀の本文にあったとまでは言えない。駿河屋の1589年秀吉献上・1658年煉羊羹創製という店の言い伝えは、寒天の成立および煉羊羹が文献に現れる年(『太梁公日記』1773年・『逾好日記』1787年・『嬉遊笑覧』の寛政説)と矛盾するため退けた。煉羊羹を最初に作った人は史料で割れる。『嬉遊笑覧』(1830)は寛政の頃(1789-1801)の紅粉屋志津磨とし、山東京山『蜘蛛の糸巻』(1846)は寛政の初めに日本橋の新道に小さな店を開いた菓子職人の喜太郎とする。どちらも江戸の書き手の後年の記述で、年代は一致するが、どちらが正しいかを決める同時代の史料は確かめられていない。『太梁公日記』『逾好日記』の年は並松2021の引用(並松自身も二次文献から引く)によるもので、日記そのものは見ていない。『日葡辞書』の語釈は並松2021の引く邦訳と19世紀の仏訳で確かめたが、1603年の原本は見ていない。『松屋会記』は1957年の翻刻の全文検索で天文11年(1542)卯月の茶会に「菓子 ヤウカン」を確かめたが、並松のいう卯月三日ではなく卯月五日の会にあたるとみられる(画像は未確認)。残課題: 『和漢三才図会』(1712)寒天条の原文照合。

起源説

定説

★主 中国の羊肉の羹『羊羹』の名を負った精進の見立て料理が、のちに菓子になった説 B

中国語の「羊羹」は字の通り羊肉の羹(あつもの)で、『戦国策』中山策の故事(羊羹不遍)や『宋書』毛修之伝(修之嘗爲羊羹)に用例がある。この名が禅宗の点心とともに日本へ入り、肉を使わない精進の「見立て」「もどき」料理として汁をかけて食べられ、戦国期から江戸初期にか…続きを読む

中国語の「羊羹」は字の通り羊肉の羹(あつもの)で、『戦国策』中山策の故事(羊羹不遍)や『宋書』毛修之伝(修之嘗爲羊羹)に用例がある。この名が禅宗の点心とともに日本へ入り、肉を使わない精進の「見立て」「もどき」料理として汁をかけて食べられ、戦国期から江戸初期にかけて菓子へ変わったとする説(並松2021。精進の見立てと汁をかける食べ方は中山圭子2018に拠る記述)。史料の交差: 『庭訓往来』(南北朝期成立)十月状は羊羹を、猪羹・驢腸羹・鼈羹など獣の名を冠した羹と並べて「點心」の列に置き、柑子・橘など果物を並べる「菓子」の列とは分けている。最古の年紀をもつ至徳3年(1386)写本でも「羊羹」「笋羊羹」は見えるが、その次の品は「砂糖羹」で、「砂糖羊羹」の形は文明4年(1472)写本や江戸期の写本・版本に見える(写本間の異同は萩原義雄の翻字による。至徳本の原本・影印は未見)。茶会記では『松屋会記』天文11年(1542)卯月の条に「菓子 ヤウカン」が見える(茶道古典全集本の全文検索による。並松は卯月三日条とするが、同書の本文の並びでは卯月五日の堺満田での会の条にあたるとみられ、画像では未確認)。『日葡辞書』(1603)は羊羹を「豆に粗糖をまぜ、こねたもので作った食物」、砂糖羊羹を「豆と砂糖とで作る。甘い板菓子(羊羹)の一種」とする(並松が引く邦訳による。1862〜68年のパジェスの仏訳でも、羊羹は豆の練り物と糖蜜で作った食べ物、砂糖羊羹は豆と砂糖で作る菓子の切り身で一致する)。江戸期の『嬉遊笑覧』(1830)も「もとハ魚獸の肉を用ひしを僧家にハ是を除きて製方をかへ…後にハ名のみ同くて物のいたく替れるも有とみゆ、今の羊羹抔是なり」と同趣旨を記す。留保: 14世紀の羊羹が何で作られ、どう食べられていたかを記す同時代の史料は確認できていない。14世紀の史料で言えるのは品名と、点心の一品という位置づけまでで、羊肉の羹が植物性の材料に置き換わった過程や、汁をかけて食べたという姿は、近世の随筆と現代の研究による組み立てである。

諸説併記

煉羊羹の初製を寛政年間の江戸の菓子屋とする江戸の随筆の伝え(紅粉屋志津磨説・喜太郎説) C

寒天で練り固める煉羊羹を最初に作った者について、江戸の随筆2点は年代では一致し、作り手の名で割れる。喜多村信節『嬉遊笑覧』(1830)巻十上 飲食は「茶の湯の口取に煉羊羹うばたまなどハ紅粉や志津磨始て製す、寛政の頃よりなり」と、寛政の頃(1789-1801)の…続きを読む

寒天で練り固める煉羊羹を最初に作った者について、江戸の随筆2点は年代では一致し、作り手の名で割れる。喜多村信節『嬉遊笑覧』(1830)巻十上 飲食は「茶の湯の口取に煉羊羹うばたまなどハ紅粉や志津磨始て製す、寛政の頃よりなり」と、寛政の頃(1789-1801)の紅粉屋志津磨とする。山東京山『蜘蛛の糸巻』(弘化3年=1846)の「菓子の変格」の条は「寬政の始大久保主水の菓子杜氏のはて喜太郞といひし者日本橋の新道の小家…自ら上菓子少しばかりづゝ造りて賣りけるに煉羊羹といふ物を製しはじめけるに」と、寛政の初めに日本橋の新道に小さな店を開いた元菓子職人の喜太郎とし、客が重箱を持たせて買いにやっても売り切れで帰されるほどだったと書く。どちらも江戸の書き手の後年の記述で、どちらが正しいかを決める同時代の史料は確かめられていない。また並松信久(2021)が古文書上の「ねりやうかん」の早い例に挙げる1773年・1787年の大名の日記(日記そのものは未確認)は寛政より前の年代であり、これが確かなら、二人の名は江戸で煉羊羹を評判にした店として伝わったもので、最初の作り手とまでは言えないことになる。

反証

羊肝餅(羊肝糕)混同説【学術的に付会と評価】 D

菓子としての羊羹の実体を、羊の肝に似せた砕米・黒砂糖の中国の菓子「羊肝餅/羊肝糕」に由来するとみる説。江戸期の考証がこれを唱え、喜多村信節『嬉遊笑覧』(1830)巻十上 飲食は「菓子の羊羹ハ羊肝糕なり」と明記し、『乗穂録』引く『金門歳節』の「洛陽人家重陽作迎涼…続きを読む

菓子としての羊羹の実体を、羊の肝に似せた砕米・黒砂糖の中国の菓子「羊肝餅/羊肝糕」に由来するとみる説。江戸期の考証がこれを唱え、喜多村信節『嬉遊笑覧』(1830)巻十上 飲食は「菓子の羊羹ハ羊肝糕なり」と明記し、『乗穂録』引く『金門歳節』の「洛陽人家重陽作迎涼肺羊肝餅」を挙げて「今のやうかんハ是にや」とする。かつては有力説だったが、並松信久(2021)は「羊肝餅説の典拠とされる文献には根拠のないものが多い。羊肝餅説は、江戸期に食べられていた羊羹の形状をもとに、中国と日本の餅の違いを無視して、羊肝餅に付会したようである」と批判する(中国語の「餅」は小麦粉食品を指し、日本の餅とは別物。和菓子の羊羹に相当する中国語は䊏)。すなわち近世日本の羊羹の姿から遡って中国の菓子名に結びつけた後付けとみられる。

駿河屋(伏見の鶴屋)煉羊羹創製伝承(1589年秀吉献上説・1658年製法確立説) D

和歌山の老舗駿河屋の店伝で、天正17年(1589)に5代岡本善右衛門が羊羹を豊臣秀吉に献上し、明暦4年(1658)に6代目が寒天を用いて現行の煉羊羹製法を確立したとする。これが俗に「煉羊羹は1589年(あるいは1658年)に発明された」と流布している。反証:…続きを読む

和歌山の老舗駿河屋の店伝で、天正17年(1589)に5代岡本善右衛門が羊羹を豊臣秀吉に献上し、明暦4年(1658)に6代目が寒天を用いて現行の煉羊羹製法を確立したとする。これが俗に「煉羊羹は1589年(あるいは1658年)に発明された」と流布している。反証: (1)煉羊羹に不可欠な寒天の成立は伝承でも明暦3年(1657)であり、1589年時点では存在しない=技術ゲートと矛盾する。(2)店伝自身は1589年の献上品を「紅羊羹」とし煉羊羹の製法確立は1658年としており、1589年創製説は後世の混同。(3)煉羊羹の初製については、店伝より同時代に近い江戸の随筆2点がいずれも寛政年間(1789-1801)を指す。喜多村信節『嬉遊笑覧』(1830)は「茶の湯の口取に煉羊羹うばたまなどハ紅粉や志津磨始て製す、寛政の頃よりなり」と紅粉屋志津磨の名を挙げ、山東京山『蜘蛛の糸巻』(1846)は「寬政の始…喜太郞といひし者…煉羊羹といふ物を製しはじめけるに」と日本橋の菓子職人喜太郎の名を挙げる(年代は一致し、作り手は割れる)。並松信久(2021)は古文書上の「ねりやうかん」の早い例として1773年・1787年の大名の日記を挙げる(日記そのものは未確認)。一般向けの家庭画報.comの記事(2023年・虎屋文庫『ようかん』2019を参考資料に挙げる)も煉羊羹の登場を1700年代後半とする。店伝を裏づける同時代史料(当該年次の日記・献立・帳簿)は確認できていない(探索範囲=web上の公開情報およびNDLデジタルコレクション次世代デジタルライブラリー全文検索。伏見・和歌山の藩政史料・店の家蔵文書には当たれていない)。

解説

羊の羹から精進の一品へ

羊羹は字のとおり、もとは中国で羊肉の羹(あつもの)を指した。『戦国策』には、羊の羹が客に行き渡らず、あぶれた大夫が怒って楚へ去ったという故事があり、『宋書』にも羊羹を作った人物が出てくる。この名は禅宗の点心(食事の合間にとる軽い食べもの)とともに日本へ渡った。

日本の文献で羊羹の名が見えるのは、南北朝期にできた往来物(手紙の形をとった教科書)の『庭訓往来』が最も古い。点心の品を書き連ねた条に、猪羹・驢腸羹・鼈羹といった獣の名を冠した羹と並んで、羊羹と笋羊羹(笋はたけのこ)が出てくる。年紀の入った最古の写本である至徳3年(1386年)本にもこの二つはあり、羊羹の名が14世紀後半の日本にあったことは動かない。その次に来る品は写本によって字句が違い、至徳3年本では「砂糖羹」、15世紀後半の文明4年(1472年)本などでは「砂糖羊羹」と書かれている。また『庭訓往来』は、柑子や橘といった果物を菓子として別の列に並べており、羊羹はそちらではなく点心の列に入っている。

この頃の羊羹が何で作られ、どう食べられていたかを書いた同時代の記録は見つかっていない。和菓子の歴史をたどる研究は、肉を使えない寺の食事のために、植物性の材料で羊肉に見立てた精進の料理として作られ、汁をかけて食べたとみている。江戸後期の考証随筆『嬉遊笑覧』(1830年)も、もとは魚や獣の肉を用いたものを僧家が肉を除いて作り方を変え、名だけが同じで中身の大きく変わったものが今の羊羹だ、と書いている。

茶席の菓子になる

羊羹が料理から菓子へ移ったのは、戦国期から江戸初期にかけてのことだったようである。天文11年(1542年)卯月(陰暦4月)の茶会を書き留めた『松屋会記』の条に「菓子 ヤウカン・フ・コフ」とあり、16世紀半ばには茶席で菓子として出されていた。

17世紀初めにイエズス会の宣教師が長崎で刊行した『日葡辞書』(1603年)には、二つの語が載っている。羊羹は「豆に粗糖をまぜ、こねたもので作った食物」、砂糖羊羹は「豆と砂糖とで作る。甘い板菓子(羊羹)の一種」である。同じ辞書のなかで、羊羹は食べ物、砂糖羊羹は菓子と書き分けられている。

菓子になった羊羹は、小豆の餡に葛粉や小麦粉を合わせて蒸籠で蒸し、冷まして固めたものだった。蒸羊羹と呼ばれるこの作り方が、16〜17世紀以降の菓子の羊羹の姿で、『日葡辞書』のいう板菓子もこの形とみられる。その作り方が書物に書き留められるのは、18世紀の初めになってからである。茶の湯の口取(茶席で出す菓子)から菓子屋の店先へと、羊羹の出る場は広がっていった。

寒天で練り固める羊羹

寒天は、ところてんを冬の戸外にさらして凍らせ、乾かして作る。伏見でその製法が生まれたと伝えるのは明暦3年(1657年)のことで、同時代の記録は残らず、後代の書物が伏見の産と記す。小豆の餡に砂糖を合わせ、寒天とともに煮詰めて練り、型に流して固める。これが練羊羹で、蒸して固める菓子から、煮詰めて練り固める菓子への切り替わりだった。

「ねりやうかん」の名が出てくるのは18世紀の後半である。和菓子の研究書は、加賀藩主前田治脩の『太梁公日記』安永2年(1773年)の条と、姫路藩主酒井宗雅の『逾好日記』天明7年(1787年)の条を早い例として挙げている。『嬉遊笑覧』は「茶の湯の口取に煉羊羹うばたまなどハ紅粉や志津磨始て製す、寛政の頃よりなり」と、寛政年間(1789〜1801年)に紅粉屋志津磨という菓子屋が作り始めたと書き留めている。一方、山東京山の『蜘蛛の糸巻』(1846年)は、寛政の初めに、大久保主水のもとで菓子職人をしていた喜太郎という者が日本橋の新道に小さな店を開き、煉羊羹を作り始めたと書く。二つの随筆は寛政年間という年代では重なり、作り手の名で分かれる。どちらが正しいかを決める同時代の史料は確かめられていない。また、先の二つの大名の日記の年は、どちらも寛政より前にあたる。研究書の挙げるこの年が確かなら、二人は最初の作り手とまでは言えなくなる。

検証ストーリー

和歌山の老舗、駿河屋には、店の由緒として語り継がれてきた二つの年紀がある。天正17年(1589年)に五代岡本善右衛門が羊羹を豊臣秀吉へ献上したこと、明暦4年(1658年)に六代目が寒天を用いて練羊羹の製法を確立したこと。ここから「練羊羹は1589年に生まれた」あるいは「1658年だ」という話が広まり、羊羹の由来としてくり返し語られてきた。

ところが1589年には、練羊羹に欠かせない寒天がまだ無い。伝えのうえでも寒天の始まりは明暦3年(1657年)で、秀吉に献じたとされる年より七十年近くあとになる。店の由緒そのものも、1589年に献じたのは「紅羊羹」であり、練羊羹の製法確立は1658年だと語り分けている。1589年に練羊羹が生まれたという言い方は、後になっての取り違えである。

残る1658年のほうも、江戸期の記録とは合わない。和菓子の研究書が「ねりやうかん」の早い例に挙げるのは1773年と1787年の大名の日記で、煉羊羹の作り始めを語る江戸の随筆2点、『嬉遊笑覧』と『蜘蛛の糸巻』は、作り手の名こそ違え、いずれも寛政年間(1789〜1801年)を指す。虎屋文庫の書籍を参考資料に挙げた一般向けの雑誌サイトの記事も、練羊羹の登場を1700年代の後半としている。1658年に練羊羹が作られていたことを示す当時の日記・献立・帳簿は、いまのところ出てきていない。

菓子としての羊羹の由来には、もう一つ古くから流布した説がある。中国の「羊肝餅(羊肝糕)」——羊の肝に似せた砕米と黒砂糖の菓子——に結びつける見方で、『嬉遊笑覧』は「菓子の羊羹ハ羊肝糕なり」と言い切り、洛陽の重陽の菓子を引いて「今のやうかんハ是にや」と記す。江戸の考証家が唱えたこの説は、かつては広く行われた。だが中国語の「餅」は小麦粉で作る食品を指し、日本の餅とは別のものである。和菓子の変遷をたどった研究によれば、これは江戸期に食べられていた羊羹の形から遡って似た名の中国菓子に結びつけた付会であり、典拠とされる文献にも根拠の薄いものが多い。

いま確かに言えるのは、名の借り元が羊肉の羹であること、14世紀後半には羊羹の名が点心の一品として日本の文献に見えること、16世紀半ばには茶席の菓子になっていたこと、そして寒天で練り固めた羊羹が記録に現れるのが18世紀後半であることまでである。そのあいだの、精進の見立て料理として入って汁をかけて食べられ、戦国期から江戸初期にかけて菓子へ移ったという道筋は、江戸の随筆と現代の研究による組み立てである。14世紀の羊羹が何で作られ、どう食べられていたかを書き留めた同時代の史料は見つかっていない。寺の点心として入った名が、茶席で蒸し固める菓子になり、18世紀の後半に寒天で練り固める菓子へ移って、今の羊羹になった。

検証ログ 追記専用の監査証跡

日付結果確度主張 / 出典更新者
2026-08-15 支持 —→—

🚫 この記述は後の検証で訂正された(→ 該当行へ)

日本語文献での「羊羹」の初出は『庭訓往来』(南北朝〜室町前期・14C後半)十月十三日状の点心の条で、猪羹・驢膓羹・鼈羹など動物名を冠した羹の列に「羊羹」「笋羊羹」「砂糖羊羹」が並ぶ=初出年 14C後半(射程=三次市立図書館「往来本」デジタルアーカイブ翻刻本文の通読)
研磨係
2026-08-15 支持 —→—
中国語「羊羹」=羊肉の羹という語義は『戦国策』中山策(中山君饗都士…羊羹不遍)および『宋書』毛修之伝(修之嘗爲羊羹)で確認できる
研磨係
2026-08-15 支持 D→C
菓子としての羊羹を中国の「羊肝餅/羊肝糕」に由来するとみる説は、喜多村信節『嬉遊笑覧』(1830)巻十上 飲食が「菓子の羊羹ハ羊肝糕なり」と明記し、『金門歳節』の「洛陽人家重陽作迎涼肺羊肝餅」を引いて「今のやうかんハ是にや」とする=近世考証の段階で羊肉羹説と併存
研磨係
2026-08-15 反証 —→—
「1589年に駿河屋(伏見の鶴屋)5代岡本善右衛門が煉羊羹を創製し豊臣秀吉に献上した」という流布説は成り立たない。煉羊羹に不可欠な寒天の成立は伝承でも1657年であり、店伝自身も1589年の献上品を「紅羊羹」、煉羊羹の製法確立を1658年としている
研磨係
2026-08-15 反証 C→C

🚫 この記述は後の検証で訂正された(→ 該当行へ)

煉羊羹の初製時期については、駿河屋店伝の1658年よりも『嬉遊笑覧』(1830)巻十上の「茶の湯の口取に煉羊羹うばたまなどハ紅粉や志津磨始て製す、寛政の頃よりなり」=寛政年間(1789-1801)の方が、同時代に近く具体的な担い手を挙げる史料として重い。虎屋文庫『ようかん』(2019)も寒天利用の煉羊羹の登場を1700年代後半とし独立に一致する
研磨係
2026-08-15 反証 C→D
羊肝餅(羊肝糕)由来説は付会である。並松信久(2021)は「羊肝餅説の典拠とされる文献には根拠のないものが多い。羊肝餅説は、江戸期に食べられていた羊羹の形状をもとに、中国と日本の餅の違いを無視して、羊肝餅に付会したようである」とし、中国語の「餅」が小麦粉食品を指し日本の餅とは別物である点を根拠に挙げる
研磨係
2026-08-15 支持 C→B

🚫 この記述は後の検証で訂正された(→ 該当行へ)

日本の羊羹は文献に現れる最初期から植物性材料の菓子であり、中国の羊肉の羹の名を受け継いだ見立て料理とみる説が学術的な定説である。『日葡辞書』(1603)は「羊羹:豆に粗糖をまぜ、こねたもので作った食物」「砂糖羊羹:豆と砂糖とで作る。甘い板菓子」と記し、『松屋会記』天文11年(1542)は茶席の菓子として羊羹を挙げる(いずれも並松2021の引用による)
研磨係
2026-08-15 反証 —→—
煉羊羹の成立は18世紀後期であり、駿河屋店伝の1658年(まして1589年)ではない。並松2021は煉羊羹の登場を18世紀後期とし、古文書上の「ねりやうかん」の早い例として加賀藩主前田治脩『太梁公日記』1773年10月12日条、姫路藩主酒井宗雅『逾好日記』1787年12月26日条を挙げる。『嬉遊笑覧』(1830)の「寛政の頃より紅粉屋志津磨始て製す」とも整合する
研磨係
2026-08-15 None —→—
前史分離: child #3157「羊羹」を前史古層 dish #3163「寒天以前の蒸羊羹」の子へ張替(#3163・'前史')
追加係
2026-08-24 支持 B→B
『嬉遊笑覧』が「肉の羹を僧家が肉を除いて製法を変えた結果、名のみ同じで物が替わったのが今の羊羹である」と述べるのは、巻十上 飲食のコマ253(点心の条)である
研磨係
2026-08-24 支持 D→D
羊肝餅説の江戸期の典拠のうち、『乗穂録』引く『金門歳節』「洛陽人家重陽作迎涼肺羊肝餅…今のやうかんハ是にや」は『嬉遊笑覧』巻十上 飲食のコマ253にあり、「菓子の羊羹ハ羊肝糕なり」の断定はコマ262にある=別の条である
研磨係
2026-10-02 反証 B→B
『庭訓往来』十月状の点心の列にある「砂糖羊羹」は、14世紀の本文にあったとまでは言えない。最古の年紀をもつ至徳3年(1386)写本は「羊羹猪羹驢腸羹笋羊羹砂糖羹饂飩饅頭素麺」と書き、該当の位置は「砂糖羹」である。「砂糖羊羹」の形は文明4年(1472)写本・山田俊雄蔵本・古版『庭訓徃来註』・江戸期の注釈書に見え、宝徳3年(1451)写本は猪羹以下を欠き、経覚筆本は単独の「羊羹」を欠く。一方「羊羹」「笋羊羹」は至徳3年写本にもあるので、羊羹の名が14世紀後半の日本の文献に見えることは動かない
研磨係
2026-10-02 支持 B→B
日本に入った羊羹が、文献に現れた最初から植物性の菓子だったとは言えない。並松2021は「わが国にもたらされた羊羹は、精進料理として肉を使わず植物性の原材料を使用した「見立て」料理あるいは「もどき」料理として発展し、汁をかけて食べた」「羊羹は戦国期・江戸初期に菓子に変化したようである」と書く(紀要 pp.301-300)。『庭訓往来』十月状も羊羹を点心の列に置き、柑子・橘などの果物を並べた菓子の列とは分けている。菓子として茶席に出る例は16世紀の『松屋会記』、豆と砂糖の板菓子とする説明は1603年の『日葡辞書』からである
研磨係
2026-10-02 支持 B→B
『松屋会記』の天文11年(1542)卯月の茶会の記事に「菓子 ヤウカン・フ・コフ」とあり、16世紀半ばに羊羹が茶席の菓子として出ていたことは翻刻本文で確かめられる。ただしその条は、並松2021が挙げる「卯月三日条」(堺の紹鷗の会)ではなく、卯月五日の堺満田での会の条にあたるとみられる。本文の並びは「壬寅卯月三日 一堺紹鷗ヘ…菓子イモノコ」「四日 一堺天王寺屋宗達ヘ…クワシ 山ノイモ 打クリ」「五日 一堺滿田ヘ…楊貴妃ウガイ茶碗ト云、菓子ヤウカン・フ・コフ」「六日 一堺油屋淨言ヘ」で、焼栗(ヤキクリ)は三日の条に見える
研磨係
2026-10-02 支持 B→B
『日葡辞書』(1603)の羊羹・砂糖羊羹の語釈は、パジェスの仏訳(1862-68)でも同じ内容である。p.909「Yôcan. Mets fait de pâte de haricots et de mélasse.」(豆の練り物と糖蜜で作った食べ物)、p.701前後「Satô yôcan. Tranches d'un gâteau que l'on fait avec des haricots et du sucre.」(豆と砂糖で作る菓子の切り身)。羊羹は食べ物、砂糖羊羹は菓子と書き分けられている
研磨係
2026-10-02 不明 D→D
煉羊羹が古文書に現れる早い例とされる『太梁公日記』安永2年(1773)10月12日条と『逾好日記』天明7年(1787)12月26日条の「ねりやうかん」は、日記そのものでは確かめられていない。並松2021はこの2例を中山圭子『事典 和菓子の世界』2018 p.148 から引いており、この出典を通じた確認は孫引きである
研磨係
2026-10-02 反証 D→D
煉羊羹の初製の時期については、駿河屋店伝の1658年より、『嬉遊笑覧』(1830)巻十上 飲食の寛政の頃(1789-1801)のほうが同時代に近く、作り手の名も挙げる史料として重い
研磨係
2026-10-02 反証 D→D
煉羊羹の登場を1700年代後半とする現代の解説は、実際に読んだのは家庭画報.comの一般向け記事(2023年11月1日・取材・文 北村美香)で、虎屋文庫の書籍『ようかん』(2019)を参考資料に挙げているが、虎屋文庫の監修ではない。書籍そのものは開いていないので、書籍が述べていることとしては扱わない。記事は年代見出し【1700年代後半】の項で煉羊羹の登場を述べ、1658年説とは合わない
研磨係
2026-10-02 反証 D→D
山東京山『蜘蛛の糸巻』(1846)も煉羊羹の作り始めを寛政の初めとしており、1658年の店伝とは合わない。ただし作り手は日本橋の喜太郎で、『嬉遊笑覧』の紅粉屋志津磨とは別人である
研磨係
2026-10-02 支持 —→C
煉羊羹を寛政の初めに作り始めたのは、日本橋の新道に小さな店を開いた元菓子職人の喜太郎だと『蜘蛛の糸巻』(1846)は書く
研磨係
2026-10-02 支持 —→C
『嬉遊笑覧』(1830)は、茶の湯の口取に出す煉羊羹を最初に作ったのは紅粉屋志津磨で、寛政の頃からだと書く。年代は『蜘蛛の糸巻』と一致し、作り手の名は一致しない
研磨係

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