食材から辿る / 新大陸(コロンブス交換)

パプリカ 素材 時期 B検証済

原産地 メキシコ

パプリカが、いつ・どこで食べ物として成立し、各地へどう伝わったかをまとめています。 原産地での成立を3ゲート(食材入手・調理技術・場)で示し、その後の各地への到来を記録でたどります。

トウガラシ(Capsicum annuum)はメキシコで栽培化された作物で、遺伝・分布の推定・考古・言語の4系統の証拠はメキシコ中東部を原産地として支持する(Kraft ほか 2014)。唐辛子を指す語が再建できる最古の祖語(オト・マンゲ祖語)は約6500年前に話されていた=遅くとも前4550年ごろまでに唐辛子は名を持って使われていた。テワカン谷などの洞窟から出た実は層からの間接的な推定で9000〜7000年前とされたが、同じ層の遺物の直接年代はより新しく出ており、栽培化の始まりの年は分かっていない。甘い粉のパプリカはハンガリー・スペインなど伝わった先で生まれた

3ゲート

食材入手ゲート
トウガラシ(Capsicum annuum)の栽培化(入手)約前4000年・メキシコ/メソアメリカ(野生採取は前6000年以前)
調理技術ゲート
果実の乾燥・製粉(パプリカ粉)/甘味・非辛味品種の選抜
場ゲート
メソアメリカでの食用栽培成立(甘味粉パプリカ文化はオスマン経由ハンガリー等16~19世紀の派生)

パプリカはどこから広がったか

パプリカと呼ばれる赤い粉と、その材料になる肉厚の甘い実は、どちらもトウガラシと同じ一つの種(Capsicum annuum)から来ている。原産地はメキシコである。言語学、生態、考古、遺伝という四つの筋の証拠が、メキシコの北東部と中東部のどちらか、または両方を栽培化の場所として指している(クラフトらの2014年の研究)。同じ研究によれば、唐辛子を指す言葉を復元できるもっとも古い祖語は、約6500年前に話されていたオト・マンゲ祖語である。そのころには唐辛子が名を持って使われていたが、栽培化が始まった年そのものは分かっていない。そこで育てられていたのは辛い実だった。ハンガリーの台所を思わせる甘い粉パプリカは、この段階にはまだ存在しない。

旧大陸に入ってからの二つの道

大西洋を渡ったのはコロンブス以後で、旧大陸への入り口は大西洋に面したイベリア半島だった。トウガラシは15世紀の末、アメリカ大陸から戻ったコロンブスの船とともにスペインへ届いた。そこから先、広がった道は二つあった。ひとつはイベリア半島の中での広がりである。ポルトガルでは、植物学者のクルシウスが1564年から65年にかけての旅でトウガラシを目にしている。

もうひとつがオスマン帝国の経路である。16世紀から17世紀にかけて、トウガラシはオスマン帝国を通じて地中海の沿岸やアナトリアに広まり、バルカン半島へ、そしてハンガリーへ入った。ヨーロッパの内陸を東から回り込んだこの流れが、のちのパプリカ文化をつくる。

辛くない実を選び出す

ハンガリーでは、伝わった実から辛みの弱い品種が選び出され、乾かして挽いた粉として使われるようになった。甘い粉のパプリカは、スペインの赤い粉ピメントンと同じく、この植物が伝わった先で生まれたものである。粉にすれば色が濃く出て、油に溶けて料理全体を赤く染める。実のまま使うのとは別の素材である。

一方、西の南フランスの記録に残るのは辛い実である。遅くとも18世紀の末には、トウガラシが農民の畑で育てられていた。1789年にパリで出たロジエ編の農業事典は、南の諸州の住民が朝食に、玉ねぎやにんにくよりも、まだ小さく緑のトウガラシの実を好むと書く。プロヴァンスとラングドックの農民は、ソラマメに次いでこの植物の手入れを惜しまないという。同じ項は、その実をとても辛いものとして扱い、甘い品種を分けていない。

メキシコの畑からハンガリーで挽かれる赤い粉まで、この植物は種としては一つのまま、人が選ぶものを変えることで別の素材になったのである。

各地への伝来 7

各地で食べ物として定着した時期の記録です。地域によっては、それに先立つ物理的な到来(観賞用など、食用より前の前史)が含まれることがあります。

  • 1493〜1500頃 スペイン 新大陸交換在地栽培
  • 1493〜1789頃 プロヴァンス 新大陸交換
  • 1493〜1565頃 ポルトガル 新大陸交換
  • 1501〜1700頃 バルカン半島 交易路
  • 1526〜1700頃 ハンガリー 交易路
  • 1540〜1650頃 レバント 新大陸交換
  • 時期不明 メソアメリカ 在来在地栽培

パプリカの到来が成立を縛った料理 15

パプリカが届く前には成り立たなかった料理です。到来年が、その料理の物理的な下限になります。

パプリカを使う料理 14

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